”惑星ソラリス”
よく ”2001年宇宙の旅” と並ぶSF映画の傑作・・・
と称されるようですが、この作品は
SFではないですよね。
原作(スタ二ワフ・レム)を読んで
「おっ、このフォーマットはいけるぞ」
とタルコフスキー監督は膝を叩いたのではないかな。
ソラリスはプラズマ(見た目が液体)に覆われている。
タルコフスキーの重要なモチーフ~水と火
を、思いきり映せますから。
火については
ロケットの発射シーンで
これまたふんだんに使用できます。
”鏡” や ”サクリファイス” でも登場する
空中浮遊、飛翔についても問題なし。
なんといっても宇宙が舞台なので
無重力というのは極めて自然。
サイエンス・フィクションそのものには
関心無かったと思いますよ、タルコフスキー。
で、メインのテーマは
寛容と不寛容、それについての救済という
他作品にも一貫して共通するもの。
主人公のクリスは
まず、お母さんとの関係性が良くなかったようです。
回想シーンではお母さん、絶えず不機嫌。
宇宙船内でイメージが実体化する
奥さんのハリーは笑顔ですけれども。
(しかし、周囲の緑は枯れています。母親のショットとは真逆ですね)
クリスが船内で見る夢~幻想のシーン
ここは非常にテクニカルな見せ場ですけれど
妻と母親が登場して、二人は一体化していきます。
(花瓶の花、枯れてませんね)
どちらとも人間関係をうまく結べなかったことを
クリスは深く後悔していて、
許しを乞います。
(燭台が倒れている)
(このお母さんのショール、奥さんも着てますね)
宇宙船でのハリーはソラリスの海が寄こす意識の実体化ですね。
母親には夢のなかで懺悔を。(クリス自身は現在の年齢として登場。幼少時の記憶の象徴であるブリューゲルの絵画を並んで眺めるショットあり)
宇宙船のラウンジの無重力状態の際
一瞬、書物が写り込みますが
これ ”ドンキ・ホーテ” ですね。
夢と現実の見境がつかなくなっているクリスのことでしょう。
(書籍は別のシーンでも登場します。痩せ馬のロシナンテ~馬も出てきますね)
クリスの苦悩とその魂の救済を、
家と池
宇宙ステーションとソラリスの海
という2つの舞台で(そのうちの一つが”SF的”)
描いたのが本作ではないかなあと。
家に入る前
ステーションに着いた時
構成(構図)が同じですよね。
クリスの心の揺れによって、家の周りの景色もソラリスの海も
頻繁に変化していくという。
その他、母親の着ていたショールが
宇宙船のベッドで寝ているハリーに掛けられていたり
あらゆる小道具がリンクしていますね。
(この辺りの 「かぶせ技の畳みかけ」は、リンチの "マルホランド・ドライブ” に引き継がれていると思います)
最後のシーンでクリスは
父親にも許しを乞うわけですが
果たして、クリスは許されたのか
救済されたのか。
この後の衝撃のシーン、
タルコフスキーはまたまたニヤリとしたでしょうね。
「いやあ、SFというのは便利なものだ。こういうふうに撮れるから」
この作品は非常に難解とされ、
故に作品解説も哲学的テーマが云々といったものが
多いようですけれど、私には
細部の描写に凝りに凝った心理劇
のように思えるんですね。
例えば舞台、セットを二つ用意して
(左に家、右に宇宙船内とか)
その両方を行き来して、芝居したら
面白いものが出来るんじゃないかなあ。
私は日本語どころか英語字幕も無いバージョンで観ただけですので
とんでもない勘違いをしているのかもしれませんが
その節は、タルコフスキー監督
どうぞご容赦くださいまし。
監督、これはサイエンスフィクション映画ではありませんが
傑作映画です、正真正銘の。
SOLARIS 予告編