私には特定の宗教への信仰心がありません。
墓参りをしたり
タイの友人たちと寺院に行った際に
手を合わせることはします。
その際に心の中で思うこともあるのですが
それは信仰と呼べるようなものではないでしょう。
宗教、そしてそれを信じるという行為は
大変にセンシティブな事項ですので
(特に外国生活においては)
安易に話題として持ち出す、言及するということは御法度です。
日本国内ではあまり意識することはないのですが
海外では、非常に多くの人~ほぼ全てといっても過言ではないでしょう
が、なんらかの宗教を信仰していますので。
当然、実に多数の小説や映画、絵画の題材になっていますけれど
こんな一節があります。
”世界は広かったが、結局、その広い世界でも、この谷戸(主人公が暮らした気候が厳しく痩せた土地)と同じように人間は悲しみに潰されていた”
だからこそ、人は共に涙ぐみ
かたわらにあって
苦患の歎きに耳をかたむけてくれる存在が
必要なのかもしれません。
沈黙(1971年) 監督/篠田正浩
沈黙-サイレンスー(2016年) 監督/マーティン・スコセッシ
同じく遠藤周作の代表的作品でもある ”沈黙”
かなりの間を置いて
2回映画化されましたが
スコセッシ版は大きな話題になりました。
篠田版ではキチジロー役の
マコ岩松の演技が素晴らしかった。
フェレイラ神父に扮する丹波哲郎も
物凄い迫力とセリフ(英語)回しでした。
洋画ですと、1986年の
”ミッション” がすぐ思い浮かびますね。
音楽がかのエンニオ・モリコーネという強力布陣。
作品を一層魅力的なものにしています。
こういった作品に触れると
信じることの厳しさに正直、慄いてしまいます。
私のような意志脆弱な人間には難しい。
でも、祈ることなら少しは出来るかもしれません。
その行為にはあまり意味も重みもないのかもしれませんが
タイの道端でよく見かける祠に
合掌するように心がけてみましょうかね、
タイの人にならって。