1965年に ”赤ひげ” を撮り終えた
黒澤明監督は、自らのプロダクションを設立し
海外進出を試みます。
(既に斜陽の時代を迎えていた日本の映画界では、黒澤の思うような作品は製作が困難になっていました)
幾つかの企画があったようですが
”暴走機関車”
の2作品が実現に向けて動き出します。
しかし結局は、どちらも中途で頓挫。
1970年製作の ”どですかでん” も
興行的に不調、
失意の監督は1971年暮れに自宅で
自殺未遂を起こしています。
まさに黒澤明の冬の時代といえる数年間だったわけですね。
は日米合作のスぺクタル巨編として期待された
”トラ・トラ・トラ!”の製作現場が
ガラガラと崩壊していく様子を克明に記録した
500ページ近い大著です。
筆者は当時、日本語脚本の英訳に’協力した人物ですが
ジャーナリストという立場から
感情的な描写を排除し、あくまで客観的な記述を試みます。
黒澤監督についての評伝等はあまた出版されているのですが、
本書によって明らかになった事項も多く
まさに衝撃の書とでもいえる内容です(2011年発行)
一言でいってしまうと、それはあまりにも無残
読み進めていくのが辛くなってしまう箇所があります。
ホームの試合なら勝てる
しかしアウェイの環境ではグラウンドに出ることさえ
ままならなかった、のですね。
アメリカ側は概ね、黒澤監督に対して
敬意を欠かさず接し
最大限、黒澤の要求を取り入れようと奮闘します。
しかし、当初からの認識のズレ~
アメリカサイドでは黒澤監督を日本で撮影するシーンの責任者として
捉えていたのに対し、
全体の決定権を持っているのはあくまで自分であり、
アメリカの監督(リチャード・フライシャー)よりも
俺は上なんだ、という黒澤の思い込みが
修正されることはありませんでした。
撮影開始後、アメリカでのスケジュールは順調に進むのですが
黒澤は僅かのシーンを撮ったのみで、解任されてしまいます。
(実際に身心が絶不調で撮影現場で倒れたり、スタジオに来ないことも多かった)
映画は別の監督、役者さんを起用して完成に漕ぎつけますが
それはもはや、当初の黒澤監督が意図していたものとは別物です。
では、黒澤監督の思い通りに全編が構成されたとして
(アメリカでの撮影分に対しても黒澤が編集権を持てたとして)
その作品が世界で評価&理解されたかというと、
それもまた違うような気もしてしまいます。
そう考えると後年、
”デルス・ウザーラ”
”影武者”
”乱”
を送り出すことができた&海外で高い評価を受けた
というのは奇跡のようにも感じますね。
気軽に読み飛ばすことができるような本ではありませんが
黒澤ファンでもアンチの方でも
一度はお読みになられてみてはいかがでしょうか。
映画(界)というものはかくも厳しくダークな
混沌世界であることをあらためて
実感することができるでしょう。