バンコクマインド

タイの過去現在未来と音楽映画書籍の旅

世界最高峰の文学作品 ”罪と罰” を再読するも、僅か67ページで挫折する

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この世の中にいったい、

どれだけの数の小説があるか知りませんが

それらすべての頂点、絶対的な存在であろう

ドストエフスキーの ”罪と罰

 

遠い遠い昔に読んだとは思うのですが

棚の奥の奥に、文庫本がありましたので

なにげに手にとって頁をめくってみました。

 

わずか二十数分後、

ラスコーリニコフへあてた母親の手紙が紹介されている

67ページ目にして、活字を追うことが不可能になってしまいました。

 

視力(字が小さくて改行がほとんどない)や集中力が圧倒的に

衰えているということもあるのですが、

今でも夢中(とまではいきませんが)になれる本はあります。

ある種の推理小説~犯人当てではなく、人物の心理描写がメイン

という内容は、自分の好みにあっているはずなのに・・・

 

読み進めることが出来ない理由は

言葉数の多さ、ですね。

”隠れている””省略されている”、そういう箇所がなくて

全てが言い尽くされてるんですね。

その圧倒的な文章力が絶大な評価を受けているわけですけれども。

 

食でいえば、満漢全席とか

一分の隙もない完全フルコースのフレンチメニュー。

途中でお腹がいっぱいになってしまうんですね、

貧弱な消化力だと。

 

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似たような体験が映画でもあって。

 

黒澤監督の ”用心棒” (1961年)

黒澤作品のなかでも非常に人気がありますね、

日本でも海外でも。

 

エンターテイメントに徹した、

明快で歯切れのいい作品です。

 

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とある宿場町に得体の知れない浪人(三船敏郎)がやってくる

 

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一膳飯屋の親父が東野英治郎

 

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開始間もないシーンなのですが、

ここで怒涛の勢いで、親父が三船に

町の状況(二つの勢力がいがみ合って対立している)を

語って聞かせます。

 

それが尋常ではない言葉数(セリフ)の多さ。

なので、猛然とした早口にならざるを得ないわけです。

観ていて違和感があったんですね、私。

 

だって素性のまったくわからない流れ者に

ぺらぺらと、町の暗部をばらすわけないですから。

それこそ「余計なことを言いやがって」と

どちらかの勢力に始末されちゃいますよ。

 

では何故、こういう場面が用意されているのか。

それは監督のサービス精神でもあり、ある種の強迫観念とでも

言えるような気がします。

観客が分かりやすいように、理解を助けるために

「いいですか皆さん。この映画はこれこれ、こういったストーリーなのです。

人間関係はAとBが対立構造になっていて、そこにCが登場して・・・」

と念押し、してるんですね。

 

それを親父のセリフとして、観客に聞かせているわけです。

この映画は単純な話なので、別にそんな必要は無いんですね。

普通に観てれば誰でも分かる。

でも、気になってしまうんでしょうね、

そこがまた黒澤監督らしさ、全開ですけれども。

 

登場人物のキャラクターも完璧にイメージされていますね、

罪と罰” も ”用心棒”も。

で、それに沿って

活字と映像で将棋やチェスの駒のように動かしている。

その采配~構成力の凄さは十分に分かるんだけれども

書かなくてもよい、言わなくてもよい、

そんな場面があってもいいかなあと、

なんかね、そんな気持ちになってしまう。

 

いかんなあ~

他の世界の名作にも挑戦してみようかな。

トルストイとかソルジェニーツィンはどうかな、

昔読んだよなあ、”イワン・デニーソヴィチの一日”とか

新潮文庫で。

 

う~ん

多分、きっとギブしそう・・・

 

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