近年、欧米での評価が高まりつつある
つげ義春の諸作。
月刊誌の「ガロ」でほぼ毎月
怒涛の勢いで傑作が連載され始めるのが
1967年の春からですが
なかでも翌年の ”ねじ式” は
そのシュールな作風によって
つげ=ねじ式
的な捉え方をされることも多いようです。
驚くのは同時期に発表されている
作品との相違で、
ほんやら洞のべんさん (ガロ/1968年6月号)
ねじ式 (ガロ/1968年6月増刊号)
同一の作者の手によるものとは思えない作画&作風です。
私はこの時にはまだ子供でしたので
リアルタイムでの読書体験は無いのですが、
当時のガロ読者の多くは相当に困惑したのではないでしょうか。
「つげ義春を旅する」「つげ義春1968」ともに高野慎三著/ちくま文庫
ガロ編集部に勤務していて、プライベートでも
つげと親交のあった高野慎三の著作によると
結局作品化されなかったストーリーが幾つもあったようです。
(”南風” ”湖畔の風景” ”万力のある家”)
もっきり屋の少女 (ガロ/1968年8月号)
”ねじ式” から僅か2か月後の
”もっきり屋の少女”を最後にして
以降のつげは執筆ペースが鈍り、
休筆期間が長くなっていきます。
現時点での最終作が
1987年の ”別離” (なんという象徴的なタイトルでしょうか)
別離 (COMICばく/1987年6・9月号)
つげ義春と違って
多少なりとも同時代での読書経験があるのが
楳図かずおでした。
(楳図作品は少年誌での掲載も多かったですから。”漂流教室” が連載されていた少年サンデーの発売日を毎週楽しみにしていたものです)
そういえばこの両巨匠は
年齢もほぼ同じで、
実質的に引退した時期が
80年代&90年代です。
(楳図かずおは昨年、大規模な美術展を開催していますので「引退」と言ってはいけないですね。短編でよいので新作の読み切りを切望・・・)
20世紀の人類遺産を入れるタイムカプセルがあったとしたら
詰め込めるだけの作品を入れて欲しいですね。
それもあえて紙のフォーマット(連載誌や単行本)のままで。
いつの日か未来の人類がカプセルを開けた時、
その永遠の価値は間違いなく伝わるでしょうし
保存状態が悪くてボロボロの紙くずになっていたとして、
そういうエンディングでも良いのでは?
「なんだったんだろう、遥か昔の20世紀の人類の宝物とは・・・」
と立ち尽くす(どういう姿勢を取るのか分かりませんが)
未来人類。
このオチのほうが漫画になりやすいかな。
本屋に行って(無ければ注文して)
これら至高のアートの数々を「手に取る」←ここが肝心ね
日々を過ごせたことに
ただただ感謝、ですね。