バンコクマインド

タイの過去現在未来と音楽映画書籍の旅

五年間待て~帝王黒澤監督、キャリア後半の苦闘

 

言わずと知れた世界のKUROSAWA

黒澤明監督。

その製作ペースを見ていると

奇妙な事実にぶつかります。

 

デビュー作の ”姿三四郎”(1943年)から

”赤ひげ”(1965年)までは

ほぼ1年に1作の安定した間隔。

 

ところがそれ以降は、

どですかでん” (1970年)

デルス・ウザーラ”(1975年)

”影武者”(1980年)

”乱”(1985年)

”夢”(1990年)

と、新作発表に時間がかかるようになり

その期間も5年間と判で押したように同じ。

 

ちよっと違和感を覚えるんですね。

どうしてなんだろう?

と。

 

 

手許にある関連書籍を読んでみると

その理由の幾つかが挙げられているんですが

もっとも主な理由としては

「思うように(好きなように)映画を撮る環境が失われた」

という点が決定的だったようです。

 

用心棒  予告編

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要は

「監督のためなら何でもやります!」

というスタッフに囲まれていたんですね、

”赤ひげ” までは。

無理目なリクエストであっても献身的に仕えるという

人々がいっぱい居たわけです、周囲に。

 

黒澤監督は60年代後半になると

海外進出を試みるのですが

(”暴走機関車” ”トラ・トラ・トラ” など)

それらは全て、企画段階や製作過程で頓挫してしまいます。

 

自身の決定権も限定され、

様々な制約下に置かれる状況に

耐えられなかったのでしょうね・・・

 

 

70年代の2作はいってみれば変化球ですし、

80年代の大作 ”影武者” ”乱”は

海外からの「ヘルプ」を仰いで製作されています。

 

”乱” の野外ロケに立ち会っていた映画評論家が、「その日は監督が狙っていた空模様ではなかったのだが、『ずっと待っているとお金がかかっちゃうからね。よし、この天気でもなんとかなるだろう』と撮影を続行したことに驚愕した、というエピソードが残されています。「以前の黒澤さんなら、何日でも役者やスタッフを待たせただろう」

(異説・黒澤明文藝春秋編より)

 

”夢”  予告編

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”夢” は実質的に監督の自叙伝~遺言書といった内容であり、

その後は小品の2本(”八月の狂騒曲” ”まあだだよ”)

を駆け足で製作後、次回作の構想を練りつつ

1998年に生涯を閉じました。

 

私は

「およそ芸術表現(美術、映画、文学、音楽、漫画等なんでも)の傑作は、作者が40代までに生まれる。引っ張っても50代が限界。以降はごく僅かの例外を除いて衰退あるのみ」

という意固地な意見の持ち主なのですが、

黒澤監督の最高峰はやはり

40~50代の時期に作られていると思うのですね。

(どの作品か、ということについては好みもあるでしょうけれど)

 

しかし、1970年代以降

もし好条件(潤沢な予算、健康状態等)が重なっていたならば

例え60代、70代になっても

老いを感じさせない傑作をものにしていたかもしれませんね、

黒澤さんは。

 

「どうだ!まだまだいけるだろ、俺は」

と豪快に笑う姿が目に浮かぶようです。

 

雨あがる  予告編

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*黒澤明が残した未完成の脚本をベースに、助監督だった小泉堯史が「黒澤組」を結集して完成させた2000年度作品。過不足なく仕上がった佳作です。